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夏の雪 ~ 第3章 再会 [日々鉄道小景~ショートストーリー]

――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ
――― いち、に、さん、よん、ご。
ちょうど5回鳴ると止まるのはメール受信の合図。電話の着信なら、あたしは留守電を設定していないから、出るまで鳴り続けるはずだ。たぶんまたケンちゃんからだろう…どうせ返信するつもりなんてないから…いいんだ。ほっとけば。

薄暗いホテルの部屋の片隅に放り出してあるハンドバックの中で、マナーモードにしている携帯電話が震えていることに、目の前の「田中さん」は一向に気づかない様子だった。
今はやりのITだかモバイルネットワークだかの新興企業の社長らしい。詳しいことはよく知らない。
この前お店に来た時にもらった名刺には「田中」と書いてあったけど、ちゃらちゃらしてそうだから、TPOに応じて何種類も名刺を使い分けてそうな雰囲気。だから「田中さん」が本名なのかどうかもよく分からないし、そんなこと知ろうとも思わなかった。
あたしにとって重要なのは、これからもちゃんとあたしを指名して来てくれるか、高いお酒をボトルで入れてくれるか、そしてホテルに付き合ったらお小遣いをくれるか―― 単にそれだけ。本当にそれ以上でもそれ以下でもないのだ。

歌舞伎町でも高級店の部類に入る「プリンセス~歌舞伎町店」にやってくるお客さんは、接待か今を時めく若手社長さんなんかの、いわゆる「上客」のみで、間違っても学生とかキャバクラを恋愛の場と勘違いするような若いサラリーマンが来れるような店ではなかった。だから向こうも完全に遊びのつもりで、あたしたちを商品としてしか見てないし、あたしたちも「商品」としての最高級のサービスを提供して、それに見合うだけの「対価」を頂く。いわゆる「ビジネス」に徹するっていうやつだ。

ビジネスのためなら、愛想も振りまくし、適当なお世辞も言うし、時には体だって使うし、それに来店してくれた翌日とかお誕生日とか、事あるごとにメールすることだって欠かさない。

――― そう、ビジネスのためなら、ううん、お金のためなら、メールすることなんか何でもないこと。
それなのに――

――― 結局、あの大雪の日、あたしはケンちゃんのメールに返信しなかった。

いつも日記のような文面だったのに、なぜかあの日は久しぶりにあたしに話しかけてくるみたいで――久しぶりに話しかけられたことに、そして偶然あたしが考えてたこととおんなじことをケンちゃんも考えてたんだっていうことに、動揺して、でも温かくて、ちょびっと泣きそうになってしまって、メールの返信を途中まで書いたけど……やっぱり送信ボタンは押せなかった。

――― あたしには雪の降る音なんて、もう一生聞こえないんだ。
あの日ケンちゃんのメールを読んで、あたしはそう確信した。ケンちゃんにしか聞こえないものは、あたしには絶対聞こえないって自信があった。
――― あたしは、あまりにも彼から遠く離れた場所に来てしまったんだ――― 

お店で指名上位のランキングに入るのに、それほど時間はかからなかった。
顔つきも幼くて受けが良かったのだと思うし、「接客業のすべて」とかその手の本は読みまくって勉強もしたし、同席した先輩のしぐさとかをこっそり盗み見て応用したりもしてた。
入店早々にランキング上位になったことで、もちろん年上の「お局様」には散々嫌味も言われたし、ロッカールームでいやがらせを受けることもしょっちゅうだったけど、あたしは気にしなかった。
「悔しければ、同じだけ稼いでみれば!」っていう気持ちだったし、それに―――ママのことを考えたら、そんなこと―――そんな苦労なんて、苦労のうちに入らなかった。


――― かんたんかんたん、本当にこんな簡単な商売ないよ。
バカみたいだね、こんな簡単に大金稼げちゃうなんて。
そう、バカみたいだよ……あたしバカみたい……ケンちゃんから、こんなに遠く離れたところに来ちゃって…ほんとにバカ…

気がつくと、あたしの目から涙がこぼれ落ちていた。
汗だくで必死な様子で動いていた、「田中さん」は勘違いして
「あれっ?ユリちゃん、痛かった?」
と言ってきた。あたしは慌てて、
「ううん、違うの。ごめんね…」とだけ言って、「田中さん」の背中に手を回した―――




――― ねえ沙織。沙織の名前はね、誕生日にちなんで洋子さんがつけてくれたんだよ…七夕の日に生まれた女の子が織姫さまみたいにきれいになりますようにって。洋子さんそう言って笑ってたよ…

古い、古い話―― そう確か、小学生の頃にコウさんの家の縁側で夕焼け雲を見上げながら聞かせてもらったような気がする。あの日もなぜか空はきれいな茜色だったのに、小さい雪のかけらが降ってきてたっけ…

上京して来て、つらいことや悲しいことがあったとき、なぜか思い出すのは、ふるさとの町のなんでもない風景だった。
夏の真っ青な空の下を走る長電の2両編成の古ぼけた車体、遠くの雪化粧をした山々が夕焼けに赤く染まる様子、駅にいたノラ猫、コウさんが作ってくれたカレーライス、そして―――幼い頃ケンちゃんと遊んだ思い出の公園。

――― ねえコウさん、オリヒメさまって不幸じゃない?一年に一回しかヒコボシさまに会えないんだもん。
そう聞いたあたしにコウさんが向けた、寂しそうな笑顔。
――― それでも幸せなんだよ…

――― ねえ、幸せってなに?お金持ってることが幸せ?あたしがケンちゃんに会わないことが幸せなの?ママは生きてて幸せなの?ねえ、コウさんの幸せってなに?

――― 沙織、雪の降る音って分かる?
またケンちゃんの声…

――― 沙織、沙織…
ぐるぐる回る、みんなの声……



――― お願いだからもうやめて!
自分で発した大声で目が覚めたとき、やっぱりあたしはまた泣いていた――




――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ…
夢うつつの頭で、ホテルの白い天井を見上げながら、遠くの方で携帯のバイブレーションが鳴っていることに気付いた。あれ?5回でやまないってことは、電話?でもこんな朝早くに、だれ……?

今朝から大事な出張らしい。「田中さん」はすでに部屋を出て行った後だった。あたしはバスローブにくるまりながら、しつこく鳴り続ける携帯電話をバックから取ってディスプレイを見ると、
―― コウさんだった。嫌な予感がした。
「もしもし…?」
「沙織かい?すまないね、こんな朝早く。あのね……」


―― それは、ママの急死を伝える電話だった……


***


久しぶりに降り立った長野駅のホームには、3月ももう終わりだというのに、うっすらと雪が積もっていて、東京に比べるとやはり気温はかなり低かった。雪国の寒さを思い出したあたしは、コートの襟を合わせて、手に自分の息を吹きかけた。
東京では春一番が吹いていたが、こちらはまだまだ冬の様相だった。

車で長野駅まで迎えに来てくれてたコウさんから、詳しいいきさつ――夕方の回診後に容体が急変したママは、すぐに集中治療室に入ったが夜の9時過ぎには息を引き取ったことや、たまたま居合わせたケンちゃんから知らせを受けて駆け付けたコウさんも結局間に合わなかったということ、そしてケンちゃんはあたしに電話をしたけどつながらず、とにかくメールだけは送ってくれたこと――などを聞かされた。
その時間は確か「プリンセス」で接客中だったはず―――親の最期も看取れないなんて、本当にどこまでもバカなあたし…

――― しばらくぶりに帰った実家の玄関には、「忌中」の札がかかっており、葬儀会社の人や近所のおばさんたちが忙しそうに動いていて、声をかけるのもはばかられるようだった。
慌てていたので、喪服も準備できておらず、お店から支給されていた黒いワンピースを着てきたのだが、それは、キラキラとラメが光っていて、厳粛な葬儀には如何にも場違いという感じだった。

居間には質素な祭壇が飾られており、白い着物を着たママが布団の上に寝ていた。
ママの顔は本当に、今にも起きだして来そうなくらい安らかな表情だった。
絶対泣くもんかって思ってたけど、やっぱりママの顔を見たら、あたしはママにすがりついてワンワン泣いていた。黒いワンピースのラメが取れて、布団の上にキラキラとこぼれ落ちた。

――― ママ、今までよく頑張ったね…痛かった?辛かった?苦しかった?でももう大丈夫だよ…
――― ねえ、ママ、あたしも頑張ったよね?ほめてくれる?
――― ねえ、ママ、でもやっぱりママがいなくちゃ、あたし寂しいよ…

ねえ、ママ、――― あたし、とうとう独りぼっちになっちゃった…
そう感じることが、あたしにとって一番つらいことだった―――

そっと背後に人の座る気配がした。懐かしいにおい。それはもうずいぶん長いこと感じてこなかったにおいだった……
でも――― あたしは敢えて振り向かなかった。たぶん振り向くと、すがりついて泣いてしまいそうな気がしたから。

台所や隣の部屋では、葬儀会社の人や近所の人が入れ替わり立ち代わり、騒がしくしているのに、この居間だけには、静謐で厳粛な時間が流れているような気がした。

たぶん同じことを感じ取っていたのかも知れない。彼が静かに席を立つまで、あたしたちはずいぶん長いことお互いに黙ったまま、同じ方向を見つめて座っていた―――


***


――― 山の頂上にうすい雲がかかっている。この分だと、明日はまた雪になるかも知れない。
葬儀の間だけでもなんとか天気が持ってくれてよかった―――

豊田幸太郎は、窓の外をぼんやり見つめながら、そんなことを考えていた。
この数日間、時間の過ぎるのがあっという間だったような気もするし、とてつもなく長い時間をジリジリと過ごしてきたような気もする。
いつかはこの日が来るだろうと覚悟してはいたのだが、それはあまりにもあっけなく訪れ、そして長い時間をかけて彼の心の中に浸透していった。

テーブルの片隅にある写真を見つめる。それは、沙織が幼い頃、健一も一緒に七五三をやった時の記念写真だった。
「洋子さんと健一と3人で写りなさい、私が撮ってあげるから」と言ったのだが、沙織は
「コウさんも一緒じゃなきゃやだ!」と頑として譲らず、仕方なしに神社の神主さんに頼んで撮ってもらったものだった。

年老いた神主さんで、目がちょっと見えなかったらしく、写真の角度は傾いており、幸太郎自身は少し引きつった笑い顔となっているのだが、それでもみんな幸せそうに写っていた。

――― もし時を戻せるのなら。
それがかなわぬ願いであることは分かっていたが、それでもそう願わずにはいられなかった。

――― 分かったわ。午後の新幹線でそっちに行くから。
母の死を伝えた朝、電話の向こうで一瞬息を飲むような雰囲気がしたが、すぐに冷静に返答した沙織。
出棺の際も、涙一つ見せずに、くちびるを噛みしめてうつむいていた沙織。
たった独りで東京に行き、たった独りで頑張ってきた沙織。
そんな彼女の姿が、痛々しく、哀れで、不憫で…でも、彼にはどうすることもできなかった。

――― もし時を戻せるのなら。
あの写真の頃に、あの幸せだった日々に彼女を帰らせてやりたい…

写真の中の無邪気な沙織の笑顔を見て、ここ数日間必死にこらえてきたものが堰を切って彼の胸を突き抜けていき、それは涙となって彼の頬を伝っていった―――


不意に玄関の呼び鈴が鳴り、彼は慌てて涙をぬぐって席を立った。それは沙織だった―――
「コウさん、いろいろありがとう。あたし、今晩の新幹線で東京に帰ることにしたから。」
そう言って黒いワンピース姿でたたずむ沙織の表情には、やはりここ数日間での疲れの跡がはっきりと見て取れた。
「そんなに急いで帰らなくても…せめてあと一晩くらいゆっくりしていったらどうだい?」
幸太郎は努めて穏やかな声で、そう沙織に語りかけたが、彼女は寂しそうに首を横にふった。

「ありがとう、コウさん。でも仕事もあるし、ちょっと無理。ごめんね。」
「そうか…でもまた7月の灯篭流しの時には帰ってくるんだろう?洋子さんの新盆だから」
沙織は、やはり寂しそうな表情のまま、
「うん……たぶん。ちょっと分からないかな…」
そう言って泣き笑いのような表情を浮かべた。

本当は、いろいろと話を聞いてやりたい、慰めてやりたい、励ましてやりたい―――
でも、どんな言葉をかけても、それは空しく彼女の心を通り過ぎるだけのような気がした。

「じゃあねコウさん、またお墓のこととか、今後のことは電話で相談させて。どうもありがとう」
「……そんな…うん、大丈夫だよ。任せなさい」
思わず泣き声になりそうになるのを必死にこらえて、幸太郎はそう言って彼女の手を握るのが精一杯だった。寒さのせいか、その手はとても冷たかった。

帰り際、大通りに向かって歩いていく彼女の後ろ姿に、
「沙織、健一には会っていかないのかい?」
幸太郎は声をかけた。

沙織はしばらく立ち止まったが、何も言わず黙ってそのまま去って行った。

「沙織…幸せになるんだよ…」
それが、さっき彼女にかけたかった言葉だったのかどうか、幸太郎自身もよく分からなかったが、彼はそう独りごちて空を見上げた。雪が再び静かに舞い落ちてきた――


***


「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は、あさま544号東京行です。途中停車駅は、軽井沢・高崎・大宮・上野です。次は軽井沢、軽井沢、しなの鉄道はお乗換えです」
車内にありふれたアナウンスが響く。長野を出発するとすぐに、新幹線はトップスピードに達したようだったが、周囲はもう真っ暗で、何も見えなくなっていた。

結局、ケンちゃんには何も言わずに出てきてしまった。お通夜の前の日、居間で黙ってそばにいてくれた優しさは、本当に泣きそうになるくらいありがたかったけれど―――でも、あたしはもう彼の近くにいてはいけないと感じていた。
――― バカ、それでいいのよ沙織。ケンちゃんはもう遠い世界にいるの。それに―――
それに、もうあそこはあたしのふるさとじゃない。あたしみたいな汚れた人が行っていい場所じゃないんだ―――

そうやって自分の気持ちを納得させようとすればするほど、あたしの胸はズキンと痛んだ。

新幹線は轟音を立てて、長い長い県境のトンネルを抜けていた。トンネル内の気圧の変化に耳が遠くなり、あたしは思わず顔をしかめる。

――― もしかしたら ―――
もしかしたら、ケンちゃんが長野駅にあたしを追っかけて来るかも知れないという淡い期待もあったが、結局そんなことは起こらなかった―――

人生はドラマのようにうまくはいかないの。本当に…バカ。
もうあなたには――― あなたには雪の降る音なんてぜったいに聞こえない―――

そう思って目を伏せた、そのとき―――

――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ
トンネルを抜け、電波が通じるようになったのだろう。きっちり5回、携帯のバイブレーションがあたしのハンドバックの中で響いた。

それは、あたしが待っていた、でも思っていたよりもずっと短い一文だけのメールだった―――

―― 沙織、七夕の灯篭流し、一緒に雪の降る音を聞きに行こう…

――― つづく ―――


20090705_071-2.jpg
[カバー写真 2009/07/05 大宮駅 この物語はフィクションです]
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