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夏の雪 ~ 終章 七夕  [日々鉄道小景~ショートストーリー]

長い長いトンネルを抜けると、まぶしいくらいの緑が目に飛び込んでくる。

「長らくのご乗車、まことにありがとうございました。列車は間もなく終点、長野、長野に到着します。どなた様もお忘れ物のないように、お降り下さい。信越線、長野電鉄はお乗換えです」
そんな車内アナウンスが聞こえると、新幹線は徐々にスピードを落とし始めた。
気の早い乗客は、網棚の上から荷物を降ろして、下車する支度を始めている。

数か月ぶりに見る故郷の景色は、本当に緑一色だった。
木々も、田んぼも、山々も、初夏の太陽の光を受けて、その萌え出ずる緑を抑えきれないかのように、キラキラ、キラキラ輝いていた。

周囲の乗客が慌ただしく下車する支度をしているのを横目で見ながら、沙織は窓の外に映る故郷の風景をぼんやりと眺めていた。

そういえば夏になると、ケンちゃんに手を引かれて、田んぼにザリガニ釣りに出かけたっけ…
いや、あたしの方がわんぱくだったから、彼を無理やり引っ張りまわして、二人して田んぼに落っこちたんだっけ…?

遠い日の記憶は遥か彼方に色あせ、もう蘇ることのない淡いかけらとなってしまったけれど、それでも彼と過ごした時間が、まぎれもなく沙織の中に息づいているのだということだけは、鮮やかな―――そう、今日のこの夏の日のような鮮やかな色彩を伴って彼女の心の中に深く刻み込まれていた―――

――― 二度と帰らないと思っていたのに。
ケンちゃんから来たメールには結局返信をしなかった。
何度も、何度も途中まで文章を書いたが、どうしてもそれを送信できなかった。
――― 彼と会うこと、彼と話すこと、そして彼と向き合うことは、自分という存在をより一層みにくいものにするようでいやだった―――そして、何よりもあたしのような人はもう二度と彼に近づいてはいけないような気がしたのだ。
―――あたしにはもう、雪の降る音なんて聞こえないんだから―――

――― 結局自分がかわいいだけなんでしょ。そうやって何でもかんでも人のせいにして。自分の気持ちに正直に生きるのが怖いだけなんじゃない。そうよ、あなたってだから汚い人なの。

自分の中に芽生えたもう一人の沙織が、またそうやって話しかけてくる。そしてそれに反論しようとすればするほど、自分自身を深く深く傷つけているような気がした。
ここ数週間、いつ果てるとも知らない心の葛藤が続いていた。そうして、その闘いに疲れ、もうすべてのことが嫌になってしまった沙織の背中を押してくれたのは、コウさんだった。
「洋子さんもきっと待ってるから…」
昨晩の電話でそう言われ、ようやく決心をして、故郷の町に帰ることにしたのだった。


この町では毎年7月7日の七夕に合わせて、公園の近くを流れる川のほとりで「灯篭流し」を行うのが習わしだった。
死者の、祖先の霊を弔うために流す灯篭―――それは、彼らが故郷に帰る道しるべともなる、この町のひと月早い盆の恒例行事だった。

死んでいったご先祖様のように、この季節になると故郷を懐かしく感じるのは、やはりあたしもこの町の人間だからだろうか…
目を閉じると、写真の中でしか見たことのない、祖父母や父の顔が優しく微笑んでいた。そして―――その先頭には、懐かしいママがいて手を振って笑っていた。



故郷の駅に降り立つと、駅前には祭りで使う大きな山車が置かれていた。道の両脇には既に出店が並んでおり、年に一度のお祭りに町全体が浮き立っているかのようだった。


――― 本当に戻ってきてよかったのだろうか…
華やいだ町の様子を横目に、沙織はそんな複雑な気持ちを抱きながら、我が家に向かって歩き出した。


***



――― 天の川みたいだ…
もう子供の頃から何度も見ている風景だが、年に一度この風景を見るたびに、健一はいつもそう感じる。
夕暮れ時になり、川原には町の人が三々五々集まってきた。みな、手に手に灯篭を持ってやってきて、公園の真ん中にかかっているこの橋のたもとから、灯篭に火をつけて流すのだ。
大小さまざまの灯篭が、夕闇の中に浮かんでは消え、やがて一つの流れとなって川を行く様子は、まるで大空に横たわる天の川のようだった―――

天の川によって離ればなれとなってしまった織姫と彦星――― 年に一度しか会うことを許されなかった二人は、本当に幸せだったのだろうか…?
遠く離れていても、愛の力さえあれば幸せだというのは、神話の世界だけの夢物語ではないだろうか…
この前、灯篭流しの準備をしていたとき、ふと思ってコウさんにそう尋ねたが、彼は寂しそうに微笑むだけだった。

それが運命だとしたら、仕方ないと思うよ―――

―――運命。
そう、沙織と出会ったのも、洋子おばさんが倒れたのも、そして沙織が一人で上京したのもすべて、この流れ行く灯篭のごとく、抗うことは出来ない運命だったのかも知れない―――
そう考えると、その不安な心持ちが少しだけ軽くなるような気がした。

結局、沙織から返事はなかった。そして、もしかしたら今日来ないかも知れないという予感も彼の中にあった。

彼女が東京でどんな仕事をしてきたのか、母親を助けるためにどれだけ苦労してきたのか、健一には分からなかったし、それは簡単に理解できるものではないような気がした。
だが、彼女がそのことで深く傷ついているんじゃないかということは、なんとなく分かる気がした。
あの日―――亡くなった洋子おばさんの前で肩を震わせながら座り込んでいた彼女を後ろから見つめていたあの日―――そこには、僕が触れてはいけない、何か神聖な想いがあるような気がしたのだ。
それは、愛や悲しみということばでは言い表せない、もっと深い僕には到底理解できない、感情の揺らめきのような気がした。

そしてまたあの日、そんな彼女の後ろ姿をたまらなく愛おしいと思ったのも事実だった―――
のど元まで出かかった言葉―――だがそれを僕は言うことができなかった。
それを言ってしまうには、あまりにも彼女は美しかった―――

―――もし再び会うことができるのなら。
僕はこの想いを伝えることができるのだろうか…
遠くの川向うまで伸びる光の筋をぼんやりと見つめながら、健一はそう感じていた。
そして―――




「天の川、みたいだね」
懐かしい声が聞こえた。振り向くと、そこには本当に懐かしい彼女の姿があった―――
いつも灯篭流しの時に着ていたかわいらしい水玉模様の浴衣を身にまとって静かに立つ沙織の姿は、少し疲れていたようだけど、やはりとても神々しく見えた―――

***



ちゃぽん…ちゃぽん…
ケンちゃんがそっと手を放すと、ママの名前が書かれた灯篭は静かに水面に浮かび、やがて他の多くの灯篭と一緒にゆっくりと流れていった。

一つ一つは小さな光でも、それがたくさん集まり、やがて大きな光の渦となって流れていく――
その様子は本当に美しく、神秘的だった。灯篭流しをこれほど美しいと感じたのは今日が初めてだったかも知れない。そして、なぜかそれを天の川のようだと感じたのも今日が初めてだった。

「コウさんが沙織によろしくってさ。」
突然話しかけられて、あたしは少し驚いて彼――ケンちゃんの顔を見た。
「コウさん、施設に新しい子供が来るっていうんで、さっき帰ったんだ。沙織は来れないかも知れないけど、もし来たらよろしく伝えてくれって言ってたよ。」

「そう……」
数か月ぶりのコウさんの顔が浮かんだ。確か最後に会ったのは、東京に帰る日の夕方だった――
「あの灯篭も、コウさんの自作なんだ。あの人、結構手先が器用だからさ」
そう言ってケンちゃんはクスクスと笑った。
本当にありがたかった。見ず知らずの他人だったあたしたちに家族のように接してくれて、ママが亡くなってからも、陰になり日向になって支えてくれた。
あたしはもう遠くに流れてしまった灯篭の残像を見つめながら、コウさんの優しさを今更ながら噛みしめていた。

「ほんとはね。」
川面を見ながら、あたしはそうつぶやいた。
「ほんとはね、あたし、もう二度とこの町に帰らないつもりだったんだ。だから、コウさんが電話くれた時も、帰るとは言わなかった。でもコウさん、あたしをとがめるでもなく、優しく「そうかい…」って言ってくれたの…」
ケンちゃんは黙ったまま川面を見つめていた。もうあたりはすっかり暗くなっていて、お互いどんな表情をしているのか伺い知ることはできなかった。
「……だってそうでしょ。ママもいなくなっちゃったし、もうあたしの帰る場所は、この町にはないんじゃないかなって。あたしバカだよね。コウさんはずっと待っててくれてたのにね…」

―――それにケンちゃんもね。
やっぱり最後の言葉は、言えずに飲み込んでしまった―――



「…ねえ沙織、覚えてる?子供のころ交わした灯篭祭りの日の約束。」
どれくらい時間がたったのだろう…ケンちゃんは何を思ったか、ふとそんな古い話を始めた。
「あれはたしか、沙織が7歳になったときだったなあ。あの年の灯篭祭りも、確かよく晴れてたんだよ。沙織、今日であたしも7歳になったんだから!って言ってさ。もう大人なんだから、来年は俺と結婚するって言い出したんだ。あれおかしかったよなあ」
彼のしゃべり方は、なぜかあたしをイライラさせるほどのんびりだった。

「それでさ、俺も困っちゃって、「じゃあ沙織が今年の冬、雪の降る音が聞こえるようになったら結婚してあげるよ」って言ったんだよ。でも結局沙織忘れてたよな~その話。まったく沙織らしいよ…」
そう言って彼は、おかしそうにクスクスと笑った。
まるで少年のようなあどけない笑顔だった―――


あたしの中で、何かがはじけたような気がした―――
「……ないよ。」

「えっ?」
彼はよく聞こえなかったらしく、思わず聞き返した。

もう止まらなかった―――
「聞こえないよ、雪の音なんて!そもそも何よ!雪が降ってる時に音なんてするわけないじゃない!バカじゃないの!
ケンちゃんは良いわよ、そうやってきれいなものしか見て、聞いてこなかったんだから。
……でもあたしには絶対に雪の降る音なんて聞こえない。聞きたくても聞けないの!
ケンちゃん知ってる?あたし東京でどんだけ汚いことやってきたか?ケンちゃん絶対に理解してくれないと思うけど、あたしお金のためならなんだってやったんだよ!お金稼ぐためなら平気で嘘だってついたし、お世辞も言ったし、それに……それに、見ず知らずの男の人とだって寝たし!もうなんだってやったんだから!だからあたしには絶対にケンちゃんが聞こえるものは聞こえない!こんな汚れちゃったあたしが、ケンちゃんが聞こえるものが聞こえるわけないもん!ねえ、なんで?なんで、そんなこと言うの!?

ケンちゃんなんか、だいっきらい!



―――もう、お願いだから……お願いだからケンちゃんもあたしをきらいになってよ!!」



気が付くと、あたしの目から、大粒の涙がこぼれていた。なんで泣いてるんだろうということも、あたしにはよく分からなくなっていた――
ただとにかく、もうこれで終わり――いろいろなことが終わったのだという気持ちだった。

―――もう帰ろう……
そう思って彼に背を向けて歩き始めた、そのとき―――




―――ぬくもりを、彼の両手がそっとあたしの背中を包み込むのを感じた。

遠い昔から、ずっとそうであったかのように、ずっとそこにいたかのように、そして、そうすることが運命であったように、健一は沙織を抱きしめていた―――

「ごめんな。沙織がどれだけ苦しんでたのか、俺には全く理解してやることができなかった…本当に情けないよ。君の哀しみや苦しみの十分の一も、いや百分の一も分かってやることができないんだ。本当にごめんな…
本当に……ごめん―――」

ケンちゃんは泣いているようだった。彼の声があたしの耳に優しく響く―――
あたしは彼の腕の中で目を閉じた。

「――― だいじょうぶ。きっと沙織にも雪の降る音、聞こえるよ。ほら今だって。」
しばらくすると、そう言ってケンちゃんは彼の胸にあたしの耳を押しあてた。


もしかしたら―――
その音がなんなのか、一瞬、分かったような気がしたのだが、それは、やはりあたしには説明することができなかった―――
「ねえ、ケンちゃん…」
「ん?」
「あたし、幸せになれるのかな…こんなあたしでも、幸せになることができる…?」
彼の胸に顔を押し付け、少し鼻声のままあたしはそう尋ねた。


彼はそれには答えず、黙って夜空を見上げた。そして―――



「もし沙織が雪の降る音が聞こえないのなら。俺、待ってるよ。沙織が本当に雪の降る音が聞こえるようになるその日まで。
―――ずっと一緒に。」



遠くの空から列車の警笛が聞こえてくる―――



「ほらっ沙織、見て!流れ星!」
空を見ていたケンちゃんがそう叫んだ。
あたしは空を見上げた。流れ星はすぐに消えてしまったみたいで、あたしにはそれを見ることはできなかったけれど、
澄んだ夜空には、本当に満天の星空が美しく光り輝き、今にも降って来るみたいで―――




―――それは、夏の夜空に舞う雪だった―――



―― 完 ――


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[カバー写真:小海線 小淵沢~甲斐小泉 この物語はフィクションです]

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夏の雪 ~ 第3章 再会 [日々鉄道小景~ショートストーリー]

――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ
――― いち、に、さん、よん、ご。
ちょうど5回鳴ると止まるのはメール受信の合図。電話の着信なら、あたしは留守電を設定していないから、出るまで鳴り続けるはずだ。たぶんまたケンちゃんからだろう…どうせ返信するつもりなんてないから…いいんだ。ほっとけば。

薄暗いホテルの部屋の片隅に放り出してあるハンドバックの中で、マナーモードにしている携帯電話が震えていることに、目の前の「田中さん」は一向に気づかない様子だった。
今はやりのITだかモバイルネットワークだかの新興企業の社長らしい。詳しいことはよく知らない。
この前お店に来た時にもらった名刺には「田中」と書いてあったけど、ちゃらちゃらしてそうだから、TPOに応じて何種類も名刺を使い分けてそうな雰囲気。だから「田中さん」が本名なのかどうかもよく分からないし、そんなこと知ろうとも思わなかった。
あたしにとって重要なのは、これからもちゃんとあたしを指名して来てくれるか、高いお酒をボトルで入れてくれるか、そしてホテルに付き合ったらお小遣いをくれるか―― 単にそれだけ。本当にそれ以上でもそれ以下でもないのだ。

歌舞伎町でも高級店の部類に入る「プリンセス~歌舞伎町店」にやってくるお客さんは、接待か今を時めく若手社長さんなんかの、いわゆる「上客」のみで、間違っても学生とかキャバクラを恋愛の場と勘違いするような若いサラリーマンが来れるような店ではなかった。だから向こうも完全に遊びのつもりで、あたしたちを商品としてしか見てないし、あたしたちも「商品」としての最高級のサービスを提供して、それに見合うだけの「対価」を頂く。いわゆる「ビジネス」に徹するっていうやつだ。

ビジネスのためなら、愛想も振りまくし、適当なお世辞も言うし、時には体だって使うし、それに来店してくれた翌日とかお誕生日とか、事あるごとにメールすることだって欠かさない。

――― そう、ビジネスのためなら、ううん、お金のためなら、メールすることなんか何でもないこと。
それなのに――

――― 結局、あの大雪の日、あたしはケンちゃんのメールに返信しなかった。

いつも日記のような文面だったのに、なぜかあの日は久しぶりにあたしに話しかけてくるみたいで――久しぶりに話しかけられたことに、そして偶然あたしが考えてたこととおんなじことをケンちゃんも考えてたんだっていうことに、動揺して、でも温かくて、ちょびっと泣きそうになってしまって、メールの返信を途中まで書いたけど……やっぱり送信ボタンは押せなかった。

――― あたしには雪の降る音なんて、もう一生聞こえないんだ。
あの日ケンちゃんのメールを読んで、あたしはそう確信した。ケンちゃんにしか聞こえないものは、あたしには絶対聞こえないって自信があった。
――― あたしは、あまりにも彼から遠く離れた場所に来てしまったんだ――― 

お店で指名上位のランキングに入るのに、それほど時間はかからなかった。
顔つきも幼くて受けが良かったのだと思うし、「接客業のすべて」とかその手の本は読みまくって勉強もしたし、同席した先輩のしぐさとかをこっそり盗み見て応用したりもしてた。
入店早々にランキング上位になったことで、もちろん年上の「お局様」には散々嫌味も言われたし、ロッカールームでいやがらせを受けることもしょっちゅうだったけど、あたしは気にしなかった。
「悔しければ、同じだけ稼いでみれば!」っていう気持ちだったし、それに―――ママのことを考えたら、そんなこと―――そんな苦労なんて、苦労のうちに入らなかった。


――― かんたんかんたん、本当にこんな簡単な商売ないよ。
バカみたいだね、こんな簡単に大金稼げちゃうなんて。
そう、バカみたいだよ……あたしバカみたい……ケンちゃんから、こんなに遠く離れたところに来ちゃって…ほんとにバカ…

気がつくと、あたしの目から涙がこぼれ落ちていた。
汗だくで必死な様子で動いていた、「田中さん」は勘違いして
「あれっ?ユリちゃん、痛かった?」
と言ってきた。あたしは慌てて、
「ううん、違うの。ごめんね…」とだけ言って、「田中さん」の背中に手を回した―――




――― ねえ沙織。沙織の名前はね、誕生日にちなんで洋子さんがつけてくれたんだよ…七夕の日に生まれた女の子が織姫さまみたいにきれいになりますようにって。洋子さんそう言って笑ってたよ…

古い、古い話―― そう確か、小学生の頃にコウさんの家の縁側で夕焼け雲を見上げながら聞かせてもらったような気がする。あの日もなぜか空はきれいな茜色だったのに、小さい雪のかけらが降ってきてたっけ…

上京して来て、つらいことや悲しいことがあったとき、なぜか思い出すのは、ふるさとの町のなんでもない風景だった。
夏の真っ青な空の下を走る長電の2両編成の古ぼけた車体、遠くの雪化粧をした山々が夕焼けに赤く染まる様子、駅にいたノラ猫、コウさんが作ってくれたカレーライス、そして―――幼い頃ケンちゃんと遊んだ思い出の公園。

――― ねえコウさん、オリヒメさまって不幸じゃない?一年に一回しかヒコボシさまに会えないんだもん。
そう聞いたあたしにコウさんが向けた、寂しそうな笑顔。
――― それでも幸せなんだよ…

――― ねえ、幸せってなに?お金持ってることが幸せ?あたしがケンちゃんに会わないことが幸せなの?ママは生きてて幸せなの?ねえ、コウさんの幸せってなに?

――― 沙織、雪の降る音って分かる?
またケンちゃんの声…

――― 沙織、沙織…
ぐるぐる回る、みんなの声……



――― お願いだからもうやめて!
自分で発した大声で目が覚めたとき、やっぱりあたしはまた泣いていた――




――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ…
夢うつつの頭で、ホテルの白い天井を見上げながら、遠くの方で携帯のバイブレーションが鳴っていることに気付いた。あれ?5回でやまないってことは、電話?でもこんな朝早くに、だれ……?

今朝から大事な出張らしい。「田中さん」はすでに部屋を出て行った後だった。あたしはバスローブにくるまりながら、しつこく鳴り続ける携帯電話をバックから取ってディスプレイを見ると、
―― コウさんだった。嫌な予感がした。
「もしもし…?」
「沙織かい?すまないね、こんな朝早く。あのね……」


―― それは、ママの急死を伝える電話だった……


***


久しぶりに降り立った長野駅のホームには、3月ももう終わりだというのに、うっすらと雪が積もっていて、東京に比べるとやはり気温はかなり低かった。雪国の寒さを思い出したあたしは、コートの襟を合わせて、手に自分の息を吹きかけた。
東京では春一番が吹いていたが、こちらはまだまだ冬の様相だった。

車で長野駅まで迎えに来てくれてたコウさんから、詳しいいきさつ――夕方の回診後に容体が急変したママは、すぐに集中治療室に入ったが夜の9時過ぎには息を引き取ったことや、たまたま居合わせたケンちゃんから知らせを受けて駆け付けたコウさんも結局間に合わなかったということ、そしてケンちゃんはあたしに電話をしたけどつながらず、とにかくメールだけは送ってくれたこと――などを聞かされた。
その時間は確か「プリンセス」で接客中だったはず―――親の最期も看取れないなんて、本当にどこまでもバカなあたし…

――― しばらくぶりに帰った実家の玄関には、「忌中」の札がかかっており、葬儀会社の人や近所のおばさんたちが忙しそうに動いていて、声をかけるのもはばかられるようだった。
慌てていたので、喪服も準備できておらず、お店から支給されていた黒いワンピースを着てきたのだが、それは、キラキラとラメが光っていて、厳粛な葬儀には如何にも場違いという感じだった。

居間には質素な祭壇が飾られており、白い着物を着たママが布団の上に寝ていた。
ママの顔は本当に、今にも起きだして来そうなくらい安らかな表情だった。
絶対泣くもんかって思ってたけど、やっぱりママの顔を見たら、あたしはママにすがりついてワンワン泣いていた。黒いワンピースのラメが取れて、布団の上にキラキラとこぼれ落ちた。

――― ママ、今までよく頑張ったね…痛かった?辛かった?苦しかった?でももう大丈夫だよ…
――― ねえ、ママ、あたしも頑張ったよね?ほめてくれる?
――― ねえ、ママ、でもやっぱりママがいなくちゃ、あたし寂しいよ…

ねえ、ママ、――― あたし、とうとう独りぼっちになっちゃった…
そう感じることが、あたしにとって一番つらいことだった―――

そっと背後に人の座る気配がした。懐かしいにおい。それはもうずいぶん長いこと感じてこなかったにおいだった……
でも――― あたしは敢えて振り向かなかった。たぶん振り向くと、すがりついて泣いてしまいそうな気がしたから。

台所や隣の部屋では、葬儀会社の人や近所の人が入れ替わり立ち代わり、騒がしくしているのに、この居間だけには、静謐で厳粛な時間が流れているような気がした。

たぶん同じことを感じ取っていたのかも知れない。彼が静かに席を立つまで、あたしたちはずいぶん長いことお互いに黙ったまま、同じ方向を見つめて座っていた―――


***


――― 山の頂上にうすい雲がかかっている。この分だと、明日はまた雪になるかも知れない。
葬儀の間だけでもなんとか天気が持ってくれてよかった―――

豊田幸太郎は、窓の外をぼんやり見つめながら、そんなことを考えていた。
この数日間、時間の過ぎるのがあっという間だったような気もするし、とてつもなく長い時間をジリジリと過ごしてきたような気もする。
いつかはこの日が来るだろうと覚悟してはいたのだが、それはあまりにもあっけなく訪れ、そして長い時間をかけて彼の心の中に浸透していった。

テーブルの片隅にある写真を見つめる。それは、沙織が幼い頃、健一も一緒に七五三をやった時の記念写真だった。
「洋子さんと健一と3人で写りなさい、私が撮ってあげるから」と言ったのだが、沙織は
「コウさんも一緒じゃなきゃやだ!」と頑として譲らず、仕方なしに神社の神主さんに頼んで撮ってもらったものだった。

年老いた神主さんで、目がちょっと見えなかったらしく、写真の角度は傾いており、幸太郎自身は少し引きつった笑い顔となっているのだが、それでもみんな幸せそうに写っていた。

――― もし時を戻せるのなら。
それがかなわぬ願いであることは分かっていたが、それでもそう願わずにはいられなかった。

――― 分かったわ。午後の新幹線でそっちに行くから。
母の死を伝えた朝、電話の向こうで一瞬息を飲むような雰囲気がしたが、すぐに冷静に返答した沙織。
出棺の際も、涙一つ見せずに、くちびるを噛みしめてうつむいていた沙織。
たった独りで東京に行き、たった独りで頑張ってきた沙織。
そんな彼女の姿が、痛々しく、哀れで、不憫で…でも、彼にはどうすることもできなかった。

――― もし時を戻せるのなら。
あの写真の頃に、あの幸せだった日々に彼女を帰らせてやりたい…

写真の中の無邪気な沙織の笑顔を見て、ここ数日間必死にこらえてきたものが堰を切って彼の胸を突き抜けていき、それは涙となって彼の頬を伝っていった―――


不意に玄関の呼び鈴が鳴り、彼は慌てて涙をぬぐって席を立った。それは沙織だった―――
「コウさん、いろいろありがとう。あたし、今晩の新幹線で東京に帰ることにしたから。」
そう言って黒いワンピース姿でたたずむ沙織の表情には、やはりここ数日間での疲れの跡がはっきりと見て取れた。
「そんなに急いで帰らなくても…せめてあと一晩くらいゆっくりしていったらどうだい?」
幸太郎は努めて穏やかな声で、そう沙織に語りかけたが、彼女は寂しそうに首を横にふった。

「ありがとう、コウさん。でも仕事もあるし、ちょっと無理。ごめんね。」
「そうか…でもまた7月の灯篭流しの時には帰ってくるんだろう?洋子さんの新盆だから」
沙織は、やはり寂しそうな表情のまま、
「うん……たぶん。ちょっと分からないかな…」
そう言って泣き笑いのような表情を浮かべた。

本当は、いろいろと話を聞いてやりたい、慰めてやりたい、励ましてやりたい―――
でも、どんな言葉をかけても、それは空しく彼女の心を通り過ぎるだけのような気がした。

「じゃあねコウさん、またお墓のこととか、今後のことは電話で相談させて。どうもありがとう」
「……そんな…うん、大丈夫だよ。任せなさい」
思わず泣き声になりそうになるのを必死にこらえて、幸太郎はそう言って彼女の手を握るのが精一杯だった。寒さのせいか、その手はとても冷たかった。

帰り際、大通りに向かって歩いていく彼女の後ろ姿に、
「沙織、健一には会っていかないのかい?」
幸太郎は声をかけた。

沙織はしばらく立ち止まったが、何も言わず黙ってそのまま去って行った。

「沙織…幸せになるんだよ…」
それが、さっき彼女にかけたかった言葉だったのかどうか、幸太郎自身もよく分からなかったが、彼はそう独りごちて空を見上げた。雪が再び静かに舞い落ちてきた――


***


「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は、あさま544号東京行です。途中停車駅は、軽井沢・高崎・大宮・上野です。次は軽井沢、軽井沢、しなの鉄道はお乗換えです」
車内にありふれたアナウンスが響く。長野を出発するとすぐに、新幹線はトップスピードに達したようだったが、周囲はもう真っ暗で、何も見えなくなっていた。

結局、ケンちゃんには何も言わずに出てきてしまった。お通夜の前の日、居間で黙ってそばにいてくれた優しさは、本当に泣きそうになるくらいありがたかったけれど―――でも、あたしはもう彼の近くにいてはいけないと感じていた。
――― バカ、それでいいのよ沙織。ケンちゃんはもう遠い世界にいるの。それに―――
それに、もうあそこはあたしのふるさとじゃない。あたしみたいな汚れた人が行っていい場所じゃないんだ―――

そうやって自分の気持ちを納得させようとすればするほど、あたしの胸はズキンと痛んだ。

新幹線は轟音を立てて、長い長い県境のトンネルを抜けていた。トンネル内の気圧の変化に耳が遠くなり、あたしは思わず顔をしかめる。

――― もしかしたら ―――
もしかしたら、ケンちゃんが長野駅にあたしを追っかけて来るかも知れないという淡い期待もあったが、結局そんなことは起こらなかった―――

人生はドラマのようにうまくはいかないの。本当に…バカ。
もうあなたには――― あなたには雪の降る音なんてぜったいに聞こえない―――

そう思って目を伏せた、そのとき―――

――― ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ
トンネルを抜け、電波が通じるようになったのだろう。きっちり5回、携帯のバイブレーションがあたしのハンドバックの中で響いた。

それは、あたしが待っていた、でも思っていたよりもずっと短い一文だけのメールだった―――

―― 沙織、七夕の灯篭流し、一緒に雪の降る音を聞きに行こう…

――― つづく ―――


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[カバー写真 2009/07/05 大宮駅 この物語はフィクションです]
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夏の雪 第3章は今週土曜日にアップ予定! [静岡]

ご無沙汰しております。
さて、最近鉄道写真ブログというより、むしろ小説ブログとなっているわけですが(笑)、現在好評(?)連載中の「夏の雪」もいよいよ大詰め、次回は第3章となります。

今までの話を読んだ方の感想としては
「感動した!」(小泉元首相か!)
という意見と、
「文章が説明的」
というご批判と頂いております。

特に後者の方については、まだまだ不徳の致すところでして、できるだけ改善したいと思っているのですが、なかなか難しいですね… やはり素人が書くと、「バサッと大胆に切り捨てる」という事がしづらいのかもしれません…

とある方からは
「脚本を読んでるみたい」と言われ、なるほどなあ~と反省している次第です。

第3章でどれだけ改善されてるか分かりませんが、1~2章に比べて感情表現が多くなってる分、できるだけ説明描写は削ったつもりです。
が、またまたご意見を頂戴できれば幸いです。

お話は、第1章はヒロイン沙織の視点から、第2章は健一の視点から、それぞれ書かれていますが、さて第3章は…?今週土曜日にはアップする予定ですので、どうぞお楽しみに!
(一部描写がR15指定に引っかかるかもしれません…青少年の方はご注意ください(笑))

まだ第1章、第2章を読まれていない方は、こちらから↓ご覧ください。

第1章 東京
http://sekiyu-oh.blog.so-net.ne.jp/2011-04-23

第2章 携帯電話
http://sekiyu-oh.blog.so-net.ne.jp/2011-06-04

20110504_023.jpg
[2011/05/04 東海道新幹線 掛川~静岡]

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夏の雪 ~ 第2章 携帯電話 [日々鉄道小景~ショートストーリー]

――― 101列車、出発進行!
速度計の横の戸締りランプがついたことを確認した後、前方の信号灯が緑色に点灯しているのを指差しで確認すると、僕は大きな声で発車の合図を喚呼した。

まだ夜も明けやらない早朝、凍てつくような寒さの中、列車のアクセルにあたるマスコンハンドルを回すと、列車は一度ガクンと揺れた後、その重い車体を億劫そうにゆっくりと動かした。
昨晩まで降っていた雪が氷となって車輪にこびりついているのか、いつもより始動にかかる時間が長いような気がする。僕は圧力計の値を注視しながら、車輪が空転しないように慎重にマスコンを一段一段上げていった。

薄暗い構内のポイントを重いディーゼル音を響かせながら通過する。昭和50年製造のJRからの払い下げの車体だけあって、ポイント通過時の揺れがひどい。まあ、さっき出発前に車内を見たら乗客はゼロだったから、関係ないのかも知れないが。

夜明け前の誰もいない街中を通過し、田んぼ沿いの直線に差し掛かる頃、ようやく列車はいつもの速度を思い出したように快調に走り出した。速度計が時速60キロを指したタイミングでマスコンのスイッチを切って惰行運転に切り替える。はるか彼方にポツンと光る緑色の信号灯を指差し喚呼で確認し、僕は傍らの録音テープのスイッチを入れた。
「毎度、長野電鉄にご乗車いただき、ありがとうございます。この電車は各駅停車長野行きです。次は上條、上條。お降りの方は前方のドアよりお降り下さい。」


――― 変わらないものと変わりゆくもの。


機械的な女性のアナウンスが誰もいない車内に響くのを聞きながら、僕はそんなことを考えていた。

遠くの山の端が徐々に白みがかっていく始発列車から見えるこの風景はたぶん、あと百年たっても変わることはないのだろう。でも僕たちの周りの環境は刻一刻と変わっていく。
この列車が合理化のため車掌を廃止し、ワンマン運転を開始したのが5年前。そして来年度は運行本数の大幅減も経営側は計画していると、昨日運輸部長の林さんから聞かされた。
「俺自身もリストラくっちゃうかもな…ダイヤ減らすっていうことは俺らの仕事減らすっていうことだもんな。時代は変わったもんだよ……」
根っからの鉄道マンで、この長電の再建に誰よりも努めてきた林さんはそう言って寂しそうに肩を落とした。


―― そう、みんな変わっていく、いや変わらざるを得ないのだ。
それは田舎から都会に出ていく人たちの多さとも無関係ではないのだろう。

胸にチクンと指すような痛みを感じる。それは2年前からもう何度も感じてきた痛みだった――

――― 明日の朝、上京するから。
2年前のあの晩、玄関でそう告げた沙織の蒼白で悲痛な表情を思い出すたびに、なぜあの日彼女の上京を思いとどまらせることができなかったのか、自責と後悔の念に僕は幾度も襲われた。

脳溢血で倒れた洋子おばさんの容体が思わしくなく、沙織が入院費用を稼ぐために上京を考えていることは、少し前に彼女自身から聞かされていたし、僕がそれに反対していることはそれとなく匂わせていたつもりだった。
子供の頃から一度こうと決めたら譲らない所があり、激高するきらいもあったが、それでも僕がゆっくり諭すと、たいていは納得してくれた。あの日失敗だったのは、突然のことでつい僕自身も頭に血が上って、彼女を叱りつけるように怒鳴ってしまったこと ―― そして、その言い方が彼女を傷つけていたのかも知れないという反省に至るには、やはり僕は若すぎたのかも知れなかった。


「家族でも恋人でもないのに!」

彼女が思わず口走ったその言葉、そして僕の目の前で乱暴に閉められたドアの音は、今でも僕の耳にこびり付いて離れない。

――― お前は洋子おばさんの入院費用を出すだけの経済力もないじゃないか、

――― お前は沙織を説得することもできないじゃないか、

――― そしてお前は……


お前は沙織を幸せにできなかった ――

あの日からもう2年…
2年前から幾重にも僕の胸に降り積もり、遠くにそびえる北アルプスの万年雪のように決してとけることのない、自責と後悔という名の雪が、また今日も執拗に降りかかってくるのを払いのけるように、僕は頭を振って前方を注視した。
列車は間もなく最初の停車駅に近づいていた――

「おーい、遠山!今晩暇か~?久しぶりに飲みに行こうぜ!」
昼の折り返し運転の乗務を終えて、駅近くの詰所に戻ると、昔からの友人で、職場の同期でもある近藤がそう言って話しかけてきた。
「お前、最近元気ないじゃん。だからさ、知り合いの女の子に頼んで合コンやってもらうことにしたんだ。今日は早番だろ。7時から駅前のカラオケ予約してあるからさ…」
相変わらずこちらの都合を聞くことをせずに、自分の思ったことをひたすらしゃべる近藤に苦笑いを浮かべて、その話をさえぎり、
「あ~、ダメだ。今日俺予定あるんだ。悪いな…」
と、わざとそっけなく言い、コンビニで買ってきた弁当を広げた。

「おいおい、そりゃないぜ!いっつも早番の日、早く帰るじゃんかよ!それとも彼女でもできたのか?」
全くデリカシーのない奴だ…内心呆れながらも、努めて表情にそれを表さないようにしながら、
「悪いな。俺もいろいろあるから…」
とだけ答えた。

近藤は少し不満げに口をとがらせていたが、ふいに深刻な表情になって
「お前、まさかまだ沙織ちゃんのこと気にしてるのか?仕方ないじゃないか。彼女もいろいろあったんだろうし…」と慰めるように言った。


優しさは時として人を傷つける ――


狭いこの町では、僕と沙織が幼馴染で仲が良かったことや、彼女の母親が脳溢血で倒れたことなどは周知の事実だった。沙織と別れた翌朝、彼女は始発列車で長野駅に向かい、そこから新幹線か特急列車で上京したらしい。たまたま始発列車に乗務していた近藤がボストンバッグを抱えて乗っていた彼女を見かけており、昼過ぎに何度電話しても電話に出ずに焦っている僕にそのことを教えてくれたのだった。

近藤にしてみれば、彼なりの優しさで教えてくれたつもりだったのだろうが、その時の僕は、彼女が結局この街を出て行ってしまったことに、そしてそれに気づくことも、止めることもできなかったという事実に、ひどく傷つき、ショックを受けていた。

そしてまた今日も、僕はあの日と同じような気持ちになっていた。近藤の顔を見ることもせずに、うつむいたまま僕は
「すまん、そんなことないんだけどな。まあいずれにしても今日は予定あるからダメなんだ。悪いけど他を当たってくれ」とだけ言って、食べかけの弁当を片付け始めた。
近藤はまだ何か言いたそうな表情だったが、僕はそれを無視して足早に詰所を出た。



午後の乗務のため車庫に向かう道すがら、ポケットから携帯電話を取り出した。
画面の端に小さな受信メールのマークがついているのを見つけ、慌ててクリックをしたが、それはいつも配信されてくる地元新聞社のニュースレターだった。

やっぱり今回も返信はないか…
僕はそっとため息をついて携帯をしまうと、再び車庫に向かって歩き出した。朝方晴れていた空は、今はどんよりと曇り、今にも雪が降り出しそうだった。

――― 彼女が東京に出てから、僕は定期的に彼女の携帯にメールを送るようになった。
それは殆ど日記のようなもので、何か人に宛てて書く類のものではなかった。
今日の列車の運行状況や、地元の天気、駅で見かけた野良猫のこと、―― そして時折コウさんや洋子おばさんのことも。

そんなことをつらつらと書き綴るだけのメールに、果たして何の意味があるのか、自分でもよくわからなくなる時があった。そしてもちろん、沙織から返事が来たことは今まで一度もなかった。

それでも時折僕は思うのだ。
もしかしたら、こうやって彼女に宛ててメールを書き綴ることで、僕はあの日彼女を傷つけたことへの償いをしたかったのかも知れない。
そして、彼女が受信拒否もアドレスの変更もせずに、メールを受け取り続けていてくれることが、僕があの日の贖罪を続けていることを、それだけは彼女が認めてくれているのではないか、と。


午後の長野への往復の乗務を終え、林さんに「106列車、異常ありませんでした。」といつも通りの報告をすると、僕は着替えて足早に駐車場に停めてある自分の車に向かった。
冷え込む車内に暖房を入れて、カーステレオから流れるサザンの古いバラード ――いまだにサザンなんか聞いてるのかよ!と近藤にはバカにされているが…―― を聞きながら、僕は車を郊外の総合病院に走らせた。

薄暗い病院の受付で、いつも通り「関根洋子さんに面会に来ました」と言うと、顔見知りの警備員さんは黙って入館バッジを渡してくれた。
別館の3階、個室の病室が並ぶこの場所は他に比べて殊更薄暗く、静かで、まるで海の底にいるかのようだった。
それは、この3階が心身共に安静を必要としている患者、端的に言えば末期ガンの人など治る見込みのない人たちが多く入っている病棟だということとも無関係ではないかも知れなかった。

303号室のドアをノックして開けると、中には珍しく先客がいた。
「コウさん。来てたの…」
「やあ、健一。久しぶりだね。」
コウさんはベッドの足元にある椅子に座って文庫本を読んでいたが、僕が入ってくるのに気づくと、目を上げて優しく微笑んだ。
大学を卒業して就職して以来、僕はわかば園を出て会社の寮に入っていたので、コウさんと顔を合わせるのは、こうして洋子おばさんの病室か、たまにわかば園に遊びに行くときだけになっていた。

僕は枕元の花瓶の花と水を取り換えながら、洋子おばさんの顔を見つめた。
最近少し体の調子が良くなってきたとのことで、先週までつけていた酸素マスクは外されていた。そのきれいな寝顔を見つめていると、本当に今にも起き出してきそうだった。そして、昔子供の頃、夕方遅くまで遊んでいた公園に迎えに来た時のように、ちょっと苦笑いしながら「健一くん、いつも沙織のことをありがとう」と言ってくれそうな気がした。
―― でも、彼女が目を覚ますことはもう二度とないんだろうなということを、僕は何となく感じとっていた。

「リンゴ食べるかい?」
ぼーっとしていたのだろうか、コウさんの声で現実に引き戻されたような気がして、僕はちょっと慌てて、頷いた。

「健一、いつもありがとう。毎週花を替えてくれているのは、健一だろう?」
コウさんはリンゴをナイフでむきながら、穏やかな声で僕にそう語りかけた。
コウさんの声は本当に昔から変わらない。聞いていると、すうっと吸い込まれてしまいそうな優しくて静かな声だった。

僕は、コウさんの問いにあいまいに頷きながら、黙って持ってきた花の枝を切りそろえていった。
コウさんは器用な手つきでリンゴをむきながら、問わず語りに
「洋子さんも喜んでくれていると思うよ。そうそう、この前その話を沙織にしたら、彼女もうれしがっていたよ」そう言ってまた微笑んだ。

僕は思わず手を止めた。沙織のことを思い出させられたのは今日これで三度目だ。
僕はコウさんの方を見ることをせずに、静かに「そう…」とだけ言って、揃えた花束をスッと花瓶に挿した。

しばらくの沈黙の後、僕は
「沙織は元気なの?」と聞いていた。できるだけ感情を押し殺したつもりだったが、コウさんにはそんな僕の気持ちなど、お見通しだったかも知れない。

コウさんは、相変わらず穏やかな声で、
「ああ、先週電話した時は元気そうだったよ。年末には顔を見せにおいでと言ったけど、仕事が忙しいと言ってたからなあ。どうだろうねえ。」
と言ったきり、黙ってリンゴをむいて、僕に差し出した。
僕もそれ以上何かを聞こうとせず、聞きたいことは山ほどあったのだけれど、やはり聞くことができずに口をつぐんだ。
沙織が東京でどんな仕事をしているのか、僕は知らない。多額に上る入院費用を稼ぐのには、いくら東京でも無理なんじゃないかということも感じてはいたが、一体東京でどんな仕事があるのか、東京に友人もいない僕には分からなかったし、コウさんも詳しくは知らないようだった。

沈黙が少し気まずくなり、僕はコウさんが差し出してくれたリンゴを一つ、口に入れた。
リンゴはまだ熟しておらず、少しすっぱかったけれど、寮で一人で食べるそれよりは、ちょっとだけ甘いような気がした。


夕方の回診が始まって、主治医の先生や看護師さんが入室してきたのを機に、僕たちは部屋を出た。
病院のロビーでの別れ際、
「コウさん…」と呼び止めたが、やはりそれ以上何を聞いて良いのかわからず、
「ごめん、何でもない」
とだけ言って、僕たちは別れた。



駐車場への道すがら、僕はまた携帯を取り出し、相変わらずの慣れない手つきで
「本日、朝方晴れのち曇り。東京は4年ぶりの大雪で、電車が遅れていたとニュースで聞く。長電は本日も遅延・異常なし。……夕方、洋子おばさんのお見舞いに行く。元気そうで安心した。」
とだけ書いた。

送信ボタンを押せば、わずか1秒かそこらで、このメッセージが遠く数百キロ離れた、まだ見知らぬ街にいる彼女の携帯電話に届く――
こんなに近くに感じるのに、いや近くに感じるからこそ、途方もなく遠い存在――
その厳然たる事実が、僕は無性に悲しかった。
胸を締め付けられるような痛みに、思わずメールの消去ボタンを押そうとすると、ふと携帯のモニターに雫が落ちてきた。空を見上げると、夕方までやんでいた雪がまた降り始めていたのだった――

……さらさら、さらさら……
とめどなく降り始めた雪の中、静謐な暗闇の中で耳を澄ますと、あの音が聞こえてきたような気がした。
懐かしい音だ。雪の音が聞こえるなんて。こんな感覚になったのは何年振りだろう…もう子供の頃から永いこと感じてこなかったような不思議な感覚だったが、僕の耳には確かに、雪の降る音が聞こえていた。
遠い昔、彼女にそのことを聞いてみたような気がする。あの時はあっけらかんと、「分からない」と言われてしまったけど。

ふと思い立って、先ほど消去しようとしていたメールの編集画面に戻り、文末に
「夜半から雪。」
と書き加えた後、ちょっと迷ったけれど、5行ほど改行して、ぎりぎりスクリーンから見える所に一言。



「沙織…雪の降る音って分かる?」
と書いた。



久しぶりに、本当に久しぶりに彼女に話しかけたような気がして、それは僕に感慨と少しだけの気恥ずかしさを生じさせたが、僕はそのまま送信ボタンを押した。
―― 通信中……送信完了 ――
秒速250キロメートル。新幹線の数千倍もの速さで運ばれる僕の気持ちは、本当にそのままの、僕が届けたいままのすがたで彼女のもとに届くのだろうか……
変わっていく世の中で、変わらずあるもの、いや変わってはいけないものがある。

そう自分に言い聞かせ、携帯の画面を閉じると、遠くの空からかすかに列車の警笛が聞こえてきた。
たぶん8時ちょうどの各駅停車が出発したのだろう。
確かこの列車は近藤の乗務だったはず。今日合コンをやるということは、この列車の運転は誰かに代わってもらうつもりだったのだろうか。まったく、あいつらしい…

僕は苦笑いをし、それから一つ、深呼吸をしてから空を見上げ、
「203列車、出発進行!」
そう大きな声で叫んだ。
                                              ―― つづく ――

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[カバー写真:2011/02/05 釧網本線 北浜駅/この物語はフィクションです]
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